アルさんのつまみ食い4

旅と食とワインと・・・ずっと続けます

ミツバチ




散歩コースの脇に咲いている花の周りに飛んでいるハチに気が付いた。近づいて写真に撮ってみた。ミツバチだ。黄色い花の周りを同じく黄色いミツバチが飛び回っている。よく観察してみるとせわしなく花を飛び移っていることに気が付いた。一つの花に留まって集めた方が効率が良いんじゃないかと思うほど、ひっきりなしに花粉を採取する花を取り換えていく

そう言えば子供の頃に自宅の庭に飛んでいるミツバチを相手に遊んだ記憶が蘇ってきた。正確に言うと”遊んでいた”のではなく、割りばしと輪ゴムで作ったおもちゃの鉄砲に輪ゴムを弾丸に見立て、それでミツバチを撃つという遊びである。当時の僕はミツバチを撃ち殺そうとするつもりでやっていたような気がするからそれを遊びと呼んでよいのか分からない。子供は時に残酷なことをするものだと思う。自己弁護のようだが。おかげで何度かミツバチに刺されたこともある

それからなぜか「養蜂」というワードが頭の中に浮かんできた。養蜂。ハチを養うと書くが、文字通りハチを飼いながら自然に咲いている木や草花の花の蜜(より正確には花粉か)をハチたちに集めさせ、できたハチミツやローヤルゼリーを売る仕事だ。このところ養老孟司先生の本やユーチューブを見ることが多く、急に虫に関心を寄せるようになったのはそんな先生の趣味が昆虫採集であるということの影響も無くはないと思う。先生はよく「都会生活には花鳥風月がない」とか「悩みのほとんどは人関係のものだ」といったことを述べている。別に僕には人間関係の深い悩みがある訳ではないが、確かに自然には距離のある生活を送っている。「お前は田んぼだろ」というのは、結局人間は自然の一部ということを端的に述べられているものだ。始めは小さな受精卵だったものが、いつのまにかこんなに大きな体になる間に人間は食べ物を通して自然を体に取り込んできているからだということを仰っている。なのに都会では自然なものを置かないし、銀座に石ころが落ちていて躓いたら人は文句を言うが、山で石ころに躓いたら”お前、気をつけて歩けよ”というように、都会の中と自然の中とでは考え方が正反対になってしまう

なんだか話が横にそれてしまった気がするが、とにかく養蜂は都内でもやっている人や団体があったり、銀座のビルの屋上で養蜂をしているという話も聞いたことがある。特にエサもいらないし人に迷惑をかけないような場所だけがあればいい。ミツバチは巣箱を出て勝手に飛んでいき、垣根や人間が引いた境界をも飛び越えて花の蜜を集めてくるわけだ。ハチに警備員は関係がないから、もしかしたら皇居の敷地の中にも勝手に入りこみ蜜をさらってきているかも知れない。そう考えてみると何だか愉快な気分になってくる。養蜂は環境に負荷をかけないどころか、健全にハチが飛び回れる街は生態系や自然が保たれていることのバロメータにもなるらしい。採れたハチミツは体にもいい。良いことばかりじゃないか、という気がしてくる。なかなか魅力的な取り組みな気がしてくる

そこで図書館で借りてきたのが「ハチヤさんの旅(月間たくさんのふしぎ)」という沢木耕太郎(文)と内藤利朗(写真)による本。九州の祁答院(けどういん:鹿児島県)から松本(長野県)、小坂町秋田県)、そして更別(北海道)まで花の開花に合わせてトラックで日本列島を北上しながらミツバチとともに移動していくという話だ。ロードムービー的な移動の楽しさと養蜂が組み合わされた短い文章は絶品。沢木耕太郎さんは自宅とは別に構えた仕事場でのランチに毎日ハチミツを食べているという話をどこかの媒体に書いていたのを思い出した。ハチミツを食べるためにハチミツをヨーグルトにかけているという話。ヨーグルトを食べるためにハチミツをかけるのではない、ハチミツを食べるためにヨーグルトを食べているのだ、というような話だったと思う。たぶんそのハチミツこそが「ハチヤさんの旅」に登場する石踊さんが採るハチミツだったのではなかったか

ところでミツバチには日本ミツバチと西洋ミツバチの2種がいて、主に養蜂に用いられるのは西洋ミツバチらしい。日本ミツバチの方が黒っぽく、西洋ミツバチの方が黄色っぽい。日本ミツバチは個人が趣味で始めるのに適しているという記述もみかけた。養蜂キットなるものもあるらしい。見ているだけでも可愛らしいミツバチだが寿命はせいぜい1か月程度なんだとか。卵から生まれるまでが3週間。短いライフタイムだ

集団で生活しているミツバチを見るにつけそれ全体が一つの生命体なのだという気がしてくる。個としての一匹のミツバチはそれぞれに独立して行動しているようにも見えるが、実際には集団としての機能の一部をその役割として果たしているだけとも言える。そういう風に見てみると一匹のミツバチそれ自体には特段の意味は見いだせないような気もしてくる。サナギの状態で病気になれば巣の外へ捨てられる。それは健康な個体を守るために犠牲にされる個体だ。非情緒的に捨てられるサナギ。生き残る個体はたまたま病気にかからなかっただけで、捨てられた個体と生き残った個体と、そこに何か意味のある選別があるようにも思えない。そうみてくると養老先生が言う「人生に意味などない」「人生の意味など知ったこっちゃない」というコメントは全くミツバチと同じようなものだと思う

 「生きてりゃいいんだよ」

そんな養老先生の言葉を聞くにつけ、生きる勇気が湧いてくるような気がした